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土肥原賢二

土肥原賢二(1883~1948年) 

岡山県出身。日本陸軍士官学校と日本陸軍大学を卒業。日本の著名な陰謀家の頭山満の門弟の一人。1931年に、参謀本部メンバー、陸軍大尉として北京に派遣され、北京に設置された日本陸軍のスパイ機関「坂西公館」の武官補佐をつとめ、中国でスパイ活動と陰謀活動に従事する日本陸軍の中堅となり、その後まもなく大佐から少将に昇進した。1928年、黒竜江督軍の顧問および張作霖の顧問に昇進し、張作霖暗殺の綿密な計画を練り、世界を驚かせた「皇姑屯事件」(奉天事件)を引き起こした。

1931年に、関東軍奉天特務機関長に就任。同年9月に奉天臨時市長となった。中国東北地区の「九・一八事変(1931年9月18日、中国東北部に対する侵略の発端)」を画策し、それに参加し、「満州」で日本が主導する「漢満蒙日鮮五族共和国」の創設を主張した。「九・一八事変」以降、侵略行為のための口実づくりのため、建川美次(作戦部長)、板垣征四郎(関東軍高級参謀)とともに「満蒙問題解決案」を作成し、東北地区の三省で「宣統帝を首領とする」「新政権」を創設することを建議し、日本政府の命令を受けて天津に赴いて溥儀をつれ出すことに成功した。長春に連れてこられ、脅迫を受けた溥儀は偽満州国の「皇帝」となった。

1932年1月に、土肥原はハルビン特務機関長に転任し、4月に日本の広島に派遣され、第9歩兵旅団団長となった。1932年8月に、奉天特務機関長に再度就任した。

1936年3月に、陸軍中将に昇進し、半カ月後、第一師団師団長に転任した。1937年3月、第14師団師団長に就任した。「盧溝橋事変(1937年7月7日)」以降、部下を率いて中国を侵略した。1938年、上海に「土肥原機関」を設置し、対中スパイ活動に力を入れた。1939年5月から、黒竜江省駐屯第5軍司令官、軍事参議官、陸軍士官学校学長、航空総監兼航空本部部長、東部方面軍司令官を歴任した。日本の降伏後、戦犯容疑者として逮捕され、1948年11月12日、極東国際軍事裁判で絞首刑を言い渡され、12月30日に刑が執行された。

「チャイナネット」資料

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